ホーム > 理事長エッセイ > 9 認知症の人びとについて教えてくれた4冊の本
9 認知症の人びとについて教えてくれた4冊の本
ずっと昔、私が高齢者の医療福祉に関心をもちはじめたころ、認知症の人びとに対するケアという言葉を耳にすることはありませんでした。病院や施設の職員は認知症の人びとの「予期せぬ」行動に振りまわされ、戸惑うばかりでした。現場では「問題行動の抑制」が主な関心事で、そのため上手に身体拘束できる職員が羽振りをきかせ、逆に「手を縛ってごめんね」などと素直にあやまっている職員は隅に追いやられている状態でした。
はじめて訪れた「老人のための病院」では、床にゴザを敷いただけの、ものが一つもない大部屋の中に、カギ付きの「つなぎ服」を着せられたお年寄りが詰め込まれていました。それは「生活の匂い」とは無縁の、ただ収容管理だけを目的とした現代の「救貧院」でした。こうした社会から隔絶されたところに、家族でもない一般市民が足を踏み入れることはほとんどありませんでした。多くの人にとって、それは窺い知ることのできない(あるいは知りたくない)別世界だったのです。やむをえず面会に訪れたとしても、通路を歩くだけで体内に沁み入ってくる老いの無慈悲さに息を凝らしたことでしょう。
その後、病院や施設の数が増え、新たに「中間施設」が作られ、そして福祉先進国の情報が入るにつれて、認知症の人びとに対するケアのあり方も徐々に変化していきました。とはいっても、相変わらず「職員の都合」によるケアが業務の中心を占めていて、そこに少しずつ、専門性をよそおった様々なタイプのセラピーが導入されていきました。こうして認知症ケアは科学性を帯びていったのですが、職員が上から施すケアに変わりはありませんでした。
認知症の人びとと接するようになった当初、私はその異質とも思える世界に困惑していました。しかし、こちらの価値観を横に置いて接することができるようになると、次第にその不思議な世界に魅せられていきました。そして今、私は、彼ら(彼女たち)と共に時間を過ごせることを感謝しています。
認知症の人びとは私にとって「癒し人」です。いつも正直に私たちのことを見ています。ですから嘘がつけず、謙虚にならざるを得ません。自分のいい加減さを思い知らされると同時に、ほっとする安らぎを与えてくれます。そのような気持ちにさせられるのも、おそらく認知症の人びとが、もはや社会的地位や身分によって他者と付き合っているのではないからだと思います。彼らはひとりの人として、他者のなかに人を求めているのです。
これまで認知症に関する本をいろいろ読んできましたが、そのほとんどが「こんな場合にはこう接しましょう」というケアのノウハウを述べているだけでした。そして、そのマニュアルどおりに実行するだけで満足していたのです。しかし、いつも心の底には、本当にこれでいいのだろうか、相手はどう思ってくれるだろうかという不安な気持ちが存在していました。
そんなとき、認知症の人びとの気持ちを垣間見させ、もっとその人の立場に立った援助を教えてくれる本に出会いました。『The 36 Hour Day』というアメリカの本です(ジョンズ・ホプキンス大学出版)。それが従来の本と異なっていることに気づいた私は、なんとしても仲間に読んでほしくなり、辞書を頼りに第1章から訳しはじめ、みんなに配布し、(途中で挫折してしまいましたが)読書会を行いました。なんとも無謀な、なつかしい思い出です。そのときの仲間は、今でもみんな「南風」を応援してくれています。この本は今日にいたるまで版を重ね、非常に長期にわたって読みつがれているそうです。
私が特別養護老人ホーム「南風」をスタートさせたころ、オーストラリアの認知症の女性、クリスティーン・ボーデンの著書が日本でも出版されました。『私は誰になっていくの? ― アルツハイマー病者からみた世界』(クリエイツかもがわ)という題名のこの本は、はじめて当事者が書いた画期的な本で、強い衝撃を受けました。認知症と診断された女性が、認知症と共に生きるとはどういうことかを教えているのです。日ごろ私たちが行っている些細なことで ― 私たちはそれを正しい援助だと思っています ― 彼女たちが混乱し、傷ついていく様子が描かれています。認知症の人びとの気持ちに寄り添うことがいかに大切かなど、認知症と共に生きている人びとと'共に生きる'ことの意味を改めて認識させられました。なお続編の『私は私になっていく』では、認知症が進行しても内面の自己は残っていくと述べています。これも新しい発見でした。
クリスティーン・ボーデンの著書に出会ったころ、幸運にも、小澤勲著『痴呆を生きるということ』(岩波新書)という素晴らしい本とめぐり合いました。この本を読みながら、なぜか私は涙を抑えることができず、そして読み終わると心が洗われていました。不思議な魅力の本です。「南風」の職員にも勧めたところ、みんな強い感銘を受けたと言ってくれました。
トム・キットウッド著『認知症のパーソン・センタード・ケア ― 新しいケアの文化へ』は、しばらく前から認知症ケアの世界で注目されている本です。認知症ケアにおいて大切なことは「その人らしさ(Personhood)」を保つことだと教えています。そのためには、認知症の人びとに対する理解やケアのあり方を「古い文化(old culture)」から「新しい文化(new culture)」へ変えなければならないと訴えています。トム・キットウッドはこの新しい理念と方法を「パーソン・センタード・ケア」と名づけました。「その人を中心としたケア」という意味です。さまざまな分野の知識を網羅しているので、非常に内容の濃い本になっています。具体的な援助場面について述べた共著もあり、そちらのほうが読みやすいと思います。
最後に書籍ではありませんが、インターネット上のウェブサイトには認知症ケアに関する新しい動きを教えてくれるものがたくさんあります。カナダのアルツハイマー協会のウェブサイトには ― わが国や他の国々と同じように ― ずっと以前から、認知症と共に生きる人びとの生の声が掲載されています。そのなかで、認知症の人びとは自分たちのことを「はじめて希望を持つことができる世代」であると述べています。認知症の当事者たちがこう言えるのは、新しい薬が開発されていることと、地域ごとに彼らを支えるサポート・システムが存在しているからです。
もう一つ、これも書籍ではありませんが、インターネット上に「DASN International」というウェブサイトがあります。これは「Dementia Advocacy and Support Network」の略で、認知症の人びとが中心になって運営している「認知症の人びとのための擁護・支援ネットワーク」です。このウェブサイトには、認知症の人びとが自ら行ったスピーチや発言が掲載されています。最近、わが国でもこうした動きが見られるようになり、認知症と共に暮らしている人びとが自分たちの内面の世界を私たちに教えてくれています。いま、こうした当事者たちの意見を反映するかたちで、認知症の人びとに対する理解やケアのあり方が新しい時代を迎えようとしているのです。